隼人塚 [バス停] [霧島市 / 鹿児島県]エリアノート GO/ AreaNote GO

タグ / Tags

緯度 経度 / longitude latitude

緯度経度
基本31.7407079130.7375115
最大31.740947130.737791
最小31.740467130.737231

他のエリアノート

エリアログ(新着順) / AreaLog(sort by new arrival)

# Title Date
- ログは0件です。ログを残してください。
Log is 0. Please write the log.
-

エリア範囲 / Area range

概要 / Summary

[国分・隼人循環 / いわさきバスネットワーク(株) / 路線バス]
[小鹿野~医療C / いわさきバスネットワーク(株) / 路線バス]

推定される住所 / Address

鹿児島県霧島市隼人町見次603-2
鹿児島県霧島市隼人町内山田一丁目5-2
鹿児島県霧島市隼人町見次602-2

駅のエリアノート

バス停のエリアノート

[31.7407079 / 130.7375115]付近のツイート

  • 500m圏内
  • 1km圏内
  • 5km圏内
  • 10km圏内

誰でも編集できるフリー百科事典からの要約

隼人塚は鹿児島県霧島市隼人町内山田にある仏教遺跡。
国の史跡。
かつては石塔はいずれも折れており、武人像のうち2体は塚からやや離れた場所に、半分埋まった状態で立っていた。
石塔 : 石塔は中央の1基が高さ6.6m、両脇の2基が約5.5〜5.6mとなっている。
発掘調査で欠落部分の石材が出土し、五重の石塔に復元された。
ただし頂部の相輪は見つからず、姶良市日木山の加治木氏宝塔など西日本の石塔相輪を参考に復元された。
軸石には仏像が彫られており、仏像の表現は平安時代から奥州藤原氏の仏教美術にみられる。
石像 : 武人石像は四天王の石像である。
復元前から立っていた持国天像、明治時代後半に持ち出され、1915年に戻された増長天像、離れて埋まっていた広目天像・多聞天像があり、このほかに発掘調査では線路側からいずれの石像にも接合しない石像の部材と邪鬼台座の部材が出土している。
由来 : 鹿児島神宮社家に伝わる『桑幡家文書』には、1737年写本の「注進當社本地垂迹之事」に「放生会ノ大路ニ五重ニ三基ノ石塔有四天王ノ石像在」とあることから、原本が書かれた南北朝時代初期には存在したと考えられている。
その由来について、発掘調査以前には以下のような説が紹介されていた。
1.和銅元年説 熊襲の祟り鎮めのため和銅元年(708年)に作った。
2.養老4年説 養老4年の隼人の反乱における死者の慰霊のために作ったという説。
3.正国寺跡説 かつてこの地にあった、鹿児島神宮の戒壇所であった正国寺の仏塔の跡という説。
隼人塚付近には「菩提寺」という小字が残っている。
正国寺は『三国名勝図会』によると尼寺であったとされ、『鹿児島縣史』には大隅国分尼寺後裔という説も記されている。
『三国名勝図絵』には、放生会がこの場所で行われていたという記述があり、2000年に再興された。
4.廃仏毀釈の跡説 明治維新以降、廃仏毀釈で壊された仏塔や石塔を寄せ集めたという説。
『三国名勝図会』には石塔2基と石像が原口にあるという記述があることから、そこから移築されたという説も有った。
しかし発掘調査の結果、寺院の遺構は確認できなかったが、塚を囲むように二重の石垣が検出され、石塔の残りの部分も出土した。
さらに、塚の上に石塔の基部が出土したことから、他の場所からの移築説はほぼ否定された。
さらに「旧正国寺跡石仏」と同じ康治元年の銘を持つ石仏が出てきたことから、現在の史跡隼人塚は平安時代後期に正国寺の前身寺院として作られたという説が有力になっている。
隼人塚という名称を最初に用いたのは、鹿児島神宮の神主であった桑幡公幸である。
彼の著作である『国分の古蹟』、熊襲塚などと呼ばれていた。
最終更新:2017年10月27日(金)12:54 wikipedia
エリアノート GO / AreaNote GO