大多喜城(址)エリアノート GO/ AreaNote GO

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緯度 経度 / longitude latitude

緯度経度
基本35.28574140.239094
最大35.28605140.239609
最小35.28537140.238783

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概要 / Summary

多喜城(おおたきじょう)は千葉県夷隅郡大多喜町にあった平城です。
別名を大滝城、大多喜城、小田喜城とも呼びます。
現在、本丸付近に土塁が大手門付近に堀跡が残り二の丸に大井戸が残っています。
建造物としては大多喜高校に保存されている「二の丸御殿薬医門」が現存しています。

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誰でも編集できるフリー百科事典からの要約

大多喜城は、現在の千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけて存在した日本の城。
初めは小田喜城と呼ばれていた。
江戸時代には大多喜藩が置かれていた。
以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではないものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。
信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。
だが、天正9年に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。
大多喜城(千葉県)
再建天守
別名 大滝城、大多喜城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 不明(層塔型3重3階模擬)
築城主 真里谷信清
築城年 大永2年(1521年)
主な改修者 本多忠勝、阿部正次
主な城主 真里谷氏、里見氏、本多氏、阿部正次、青山正俊、阿部正令、阿部正春、稲垣重富、松平氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 土塁、空堀、井戸
指定文化財 千葉県史跡(本丸跡)
再建造物 再建天守
位置 北緯35度17分9.18秒・東経140度14分21.63秒
最終更新:2017年2月18日(土)09:34 wikipedia
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