懸田城(址)エリアノート GO/ AreaNote GO

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緯度 経度 / longitude latitude

緯度経度
基本37.78073140.597878
最大37.78108140.598274
最小37.78048140.597502

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エリア範囲 / Area range

概要 / Summary

懸田城(かけだじょう)は、陸奥国伊達郡懸田にそびえる茶臼山の山頂付近にあった山城です。
現在の福島県伊達市霊山町掛田に位置しています。
別称としては、掛田城・茶臼城とも呼ばれます。

推定される住所 / Address

福島県伊達市霊山町掛田字辻向2-9
福島県伊達市霊山町掛田字辻向3-9
福島県伊達市霊山町掛田字辻向6-9
福島県伊達市霊山町掛田字町田8-9
福島県伊達市霊山町掛田字町田9-9

駅のエリアノート

バス停のエリアノート

# Name Km
1 掛田金子町 0.2
2 新町 0.3
3 中町 0.4

[37.78073 / 140.597878]付近のツイート

  • 500m圏内
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  • 10km圏内

誰でも編集できるフリー百科事典からの要約

懸田城は、陸奥国伊達郡懸田にそびえる茶臼山の山頂付近にあった中世期の日本の城。
掛田城・茶臼城とも表記する。
鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて高松定隆の支配下にあった。
定隆は正中2年に杉目郷に高松城を築いて拠点としていたが、建武2年に北畠顕家の命を受けて懸田に新城を築いて拠点を移した。
その子孫は懸田氏を称し、伊達氏に従って南朝方の将として活躍した。
懸田氏は大江氏の末裔とされるが、定隆の曾孫である懸田詮宗の代に伊達氏から養子を迎えた。
戦国時代に発生した伊達氏の天文の乱において、懸田俊宗は伊達稙宗の娘婿であった関係から稙宗を救出して懸田城に迎え入れて伊達晴宗と対抗した。
天文12年3月25日には、父・稙宗救出のために懸田に入った亘理綱宗が兄・晴宗に討たれている。
乱は晴宗の勝利に終わり、晴宗は懸田氏に対して懸田城の破却などの過酷な講和条件を課した。
このため、天文21年に懸田俊宗は息子の義宗とともに反乱を起こし、伊達晴宗に攻め滅ぼされた。
後に永禄9年に中目長政が懸田城に入り、関ヶ原の戦いの際にも上杉景勝に対抗するために伊達政宗の軍が懸田城に進出している。
その後間もなく廃城となった。
最終更新:2017年2月18日(土)09:34 wikipedia
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