二俣城(址)エリアノート GO/ AreaNote GO

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緯度 経度 / longitude latitude

緯度経度
基本34.86202137.808927
最大34.86231137.809356
最小34.86158137.80853

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概要 / Summary

二俣城(ふたまたじょう)は、遠江国豊田郡二俣にあった山城です。
現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣に位置しています。
浜松市の史跡に指定されています。
遺構としては石垣、土塁、堀が残っています。

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誰でも編集できるフリー百科事典からの要約

二俣城は、遠江国豊田郡二俣にあった日本の城。
山城。
天竜川と二俣川に挟まれた天嶮に恵まれた中世城郭として名高く、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。
また、家康の嫡男信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られる。
浜松市指定史跡。
本項では二俣城攻略の際に付城として築かれた鳥羽山城についても記述する。
加えて、北にある信濃側から見れば山間部から遠州平野への入り口といえる場所に位置し、南の道を気賀まで抜ければ、東海道の脇街道である本坂通が東西に走り、そこからさらに下れば浜名湖の東側に出るなど、街道上の要衝といえる位置にあった。
今川氏の拠点として : この二俣への築城は、戦国時代初頭、遠江を巡って今川氏と斯波氏が争った際に、今川氏が拠点とするために城館を築いたのがその初めといわれる。
ただし、それは後のように山城ではなく、北東の平坦地にあったと考えられている。
その後今川氏は当主義元の勢力下で大きく勢力を伸張、その被官松井氏が城の位置を変更、天竜川を見下ろす小山に築城したといわれるが確実な史料はない。
宗信は永禄3年5月、桶狭間の戦いで当主義元とともに討死するが、その子松井宗恒も跡を継いだ今川氏真に重用され、3千貫を与えられた。
ところが永禄12年、今川氏は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の挟撃にあって滅亡した。
松井氏は武田信玄への従属の道を選ぶが、信玄と敵対した徳川家康に攻撃され、降伏した。
家康は二俣城に鵜殿氏長を城代として置き、武田勢の攻撃の危険が高まると譜代の家臣である中根正照に城代を交代させた。
徳川方からすれば落城すると本拠・浜松を守る拠点がなくなるため、城代中根正照以下必死に抵抗し、城の堅固さも手伝ってよく守っていた。
そこで攻めあぐねた勝頼は、籠城軍が天竜川河畔に水の手櫓を築いて水を確保しているのを発見、天竜川に大量のいかだを流して水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したという。
二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、浜松を無視するが如くそのまま西進、これに業を煮やした家康が浜松城から出撃し、12月23日に三方ヶ原の戦いで両軍は激突した。
武田軍は大勝し、12月28日には信玄は越前の戦国大名・朝倉義景に戦勝を報告するとともに織田信長を討つよう出陣の催促の手紙を送っている。
この中に二俣城が修築中であることも記載されている。
しかし、上洛そのものはまもなく信玄が発病したために中止となり、信玄は帰国中に死亡した。
その後二俣城には、信濃先方衆の依田信蕃が城主として入った。
家康は信玄死後から直ちに遠江・三河にある武田の諸城を攻撃した。
二俣城にも元亀4年6月に攻勢をかけたがこのときは撤退している。
一方で逆に遠江東部の高天神城が武田の新当主・勝頼によって落城させられるなど、徳川氏にとっては厳しい状況が続いていた。
ところが天正3年5月21日、長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗した。
家康は直ちに反攻を開始、6月には二俣城にも軍を出し、付城を二俣城の隣の小峰である鳥羽山ほか5箇所に作って包囲した。
同年8月14日、家康は遠江の東端にある諏訪原城を落城させたが、二俣城の城兵はよく戦い、なかなか落城しなかった。
しかし同年12月24日、城兵の安全な退去を条件についに開城、城代依田信蕃も駿河田中城に撤退した。
家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を置き、合わせて万全な城の修築工事を行わせた。
武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しなかった。
二俣城(静岡県)
天守台
別名 蜷原城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 不明(松井氏か)
築城年 不明(16世紀前半から中葉)
主な改修者 大久保忠世
主な城主 松井氏、中根氏、依田氏大久保氏、堀尾氏
廃城年 慶長5年(1600年)
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 なし
位置 北緯34度51分43.29秒・東経137度48分32.16秒
最終更新:2017年6月25日(日)00:10 wikipedia
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